人物
美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士の子に生まれる。文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡。星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。 出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。かつて学問の街といわれた大垣であるが、現在の大垣の代表的文人とされている。 なお、大垣市立星和中学校の校名は、彼の名前に由来するものである。
星巌とその妻紅蘭はまたいとこにあたる。 江戸から故郷に帰った星巌は、村の子供たちを集めて、「梨花村草舎」と称する塾の様なものを開いた。そこに通っていた中に紅蘭もいた(当時14歳)。 紅蘭は星巌の才学、人となりを慕って、進んで妻になることを父に請うたと言われている。 星巌32歳、紅蘭17歳の年に結婚をする。 ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。 それから三年後、帰ってきた星巌を迎えた紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。 階前栽芍薬。堂後蒔當歸。 一花還一草。情緒兩依依。
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